一枚の写真

私の手元に、黒地にエンヂと白でエジプト模様がかかれている一冊のアルバムがある。
「忘れ得ぬ慕情」出演記念。裏に昭和三十一年七月五日。
  どうやら私は、なにかの記念といってはアルバムを買うくせがあるようだ。
  高校の演劇部で、同じ舞台に立って以来の友人である夫佐恵に誘われて、
初めて大船にある松竹撮影所の門をくぐったのは、私が二十一歳のときであった。
撮影所とはどんな所か、一度は行ってみたい好奇心にかられて劇団で芝居の勉強をしていた彼女について行ったのである。
夫佐恵の口添えで女給役としてその他大勢に私も出ることになった。
  守衛さんのいる門を入り、右手に事務所、左には芝生がきれいに植えられ、なにやら別の世界に足を踏み入れた感がした。映画で見たことがあるような俳優さんが、あちこちで立ち話をしているのが見えた。
  衣装部屋にゆき、自分に似合うドレスをえらんだ。彼女は黒地に白の水玉模様の裾の長いドレス、胸を大きくVカットしたそれは色の白い彼女によく似合った。私は薄い水色のオーガンディ風のドレス。初めて着た素敵な洋服に、すっかり有頂天になった。
  広い撮影所の奥まった所にある厚い鉄の戸を開け、中に入った。たくさんの照明器具、映写機が並び十数人の裏方さんが忙しく動きまわっていた。その中にとびぬけてスマートな外国人が、あれこれ助手に指し図している様子が目に映った。
「フランスのイヴ、シャンビ監督よ」
  夫佐恵が小声で教えてくれた。精悍な中にも湖のようにおだやかで、優しい青い瞳が印象的であった。“悪の決算”という映画で有名な監督だという事は、私も知っていた。
  六月のセットの中は、薄暗くむし暑かった。大勢の人に交わりひときわ目立って、かの有名なジャン・マレエと、大女優ダニエル・ダリューが隣同士椅子に腰掛けていた。茶の短い髪にイヤリングをつけ、胸もあらわな象牙色のイブニングに身をつつんだダリューは、かたわらのマレエを無視するかのように、毅然とした態度で、前方を凝視していた。後ろでは、お付きの人がせわしなく団扇で風を送りつづけていた。この撮影のために着用するパリモード三十着は全部クリスチャン・ディオールのデザインによるものとか……。
  一方マレエは片手に小さな扇風機を持ち(それは手のひらに入るくらい)自分の顔に風を送っていた。電池で回しているのであろうが、私には初めて見るものでめずらしかった。どこから見ても魅力的なマスクで、さすがフランスを代表する俳優だと感心した。二人のために通訳の女性が、少し間をおいて後ろに立っていた。どうやらナイトクラブのセットらしく、私たちはただ、座っていればよかった。他に十四、五名の男女がいた。
  ひとたび撮影が始まると、それまでひと言も言葉を交わさなかった二人が、たちまち恋人のようにダンスを始めた。マレエは口元に微笑さえ浮かべて……。その変わりように驚かされた。その日はとうとうダリューの笑顔は見ることがなかった。或は役柄に徹していたのかもしれない。
  昭和三十年に、スタンダールの「赤と黒」を日比谷映画で見た。ダリューのド・レナル夫人、相手役はジェラール・フィリップ。二十歳の私には、少しむつかしいおとなの映画だった。
  翌日は台風のシーンで、百五馬力の小型扇風機を二台使用して、瞬間風速三十米を超える中、人々が逃げまどうシーンを撮影した。昨日とはうって変り、ダリューは白のブラウスにスカート、レインコートを着用、私達もレインコート姿であった。
  休憩の折、私はそっと「赤と黒」のプログラムを差し出し、サインをお願いした。彼女は笑顔で快く応じてくれたばかりが、写真をとることも許してくれたのである。まさか一緒のカメラに収まるとは夢のような出来ごとで、私の顔は笑ったつもりが硬直していた。内申ふるえが止まらなかった。肩をぴったりくっつけた彼女にも、その震えは伝わったと思う。私は必死で「メルシー」を繰返すばかりであった。白い歯がまぶしく、優しいほほえみが嬉しかった。
  岸恵子も、主演の一人として出演していた。暗いセットの中で、サングラスをかけ、ひっそりと座っていた彼女の姿が強く印象に残っている。
  日仏合作総天然色映画として「忘れ得ぬ慕情」は、製作費四億八千万円という巨費を投じ、松竹築地会館の落成を期して公開されるという事であった。
  あのころ、ダリューは幾つだったのか……今もフランスで健在なのか……若いわたしにとって貴重な体験であり、古いアルバムをめくるたびに、ふつふつとあの日の彼女の面影が浮かんでくるのである。

 

方言指導

 この話があったのは、同じ和歌山の田辺出身で、A劇団に所属している、幼なじみの多代からだった。(現在中堅女優として活躍中)
  今度、NETで、有吉佐和子原作の「華岡青洲の妻」をやることになったので、紀州の方言指導を、お願いしたいという事だった。なんでも、知り合いのプロデューサーに、頼まれたらしい。
「へェー、どうしてわたしに?」ときくと、
「幸ちゃんは、高校時代演劇部にいたから、出来ると思って……」
  と、言われて驚いた。いくら演劇をやっていたからといって、たかが田舎の高校である。そんな私に、東京の中央で活躍しているプロの俳優さんたちに、方言を教えるなんて出来るものかどうか……。
  二、三日考えた。六月、七月の二ヶ月間それも土曜の夕方が稽古という事だった。子供は、まだ二人共小学生だったので、主人の協力なしには、出来ないことだった。もともとお芝居は好きな方だし、
「いい記念になるから、思い切ってやってみたら?」という主人に励まされて、引受てみようかと思い、その旨、多代に電話した。それに、作者の有吉佐和子さんは、同じ和歌山県人である。
  いよいよ監督さんに、面接する日が来た。自分に一番似合いそうな水色のスーツを着、精一杯おめかしして、約束の場所に行くと、多代は、先に来て待っていてくれた。奈良井さんというその監督は、黒メガネをかけていて、一寸恐い気がしたが、言葉は優しかった。挨拶のあと、二三質問され、世間話などして、早速六月から来て下さいという事になった。面接とは形ばかりで、最初から、決まっていた様子だった。
  六月の第一土曜、主人に子供を頼み、心にかけながら、六本木のNETに出かけて行った。まだ時間は早かったが、最初が肝心と思い、みんなが集まるのを待っていた。場所は玄関前の二階だった。そのうち監督初め、助監督、裏方の人たちが見えた、と思ったら、映画やTVでおなじみの、南田洋子、北林谷栄、岡田英次さん、それに美男のおつき二人従えた水谷八重子さんが入ってこられた。すらっと背が高く、断髪で赤いシャツに白のスラックス、舞台では、何度か拝見していたが、実際にお会いするのは、初めてだった。そこはかとなく、品があり、優しげな微笑を浮かべて、貫禄十分な、水谷さんに、監督が「水谷先生」と呼びかけられるのをきいて、さすがだと感心した。
  ふと、人の気配がして振り返ると、岡田さんが立っていた。「和製ジャンマレエ」といわれた岡田さんは、端正な面持で、
「方言指導、よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げられた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」と私も慌てて頭を下げた。暫くたって、今度はあのおばあさん役で有名な、北林さんが、映画でみるのとは打って変わって、若々しい姿で、
「よろしく、お願いしますね」と挨拶にこられた。
  始め、と終り、きちっと挨拶して下さったお二人に、さすが苦労された新劇出身の方は違うナァと、深く感じ入った。
  華岡青洲の生まれた“名手”という所は、同じ紀州でも、特に言葉遣いがむつかしく、……のしとか、……よしとか、言葉の終りに、独特の言いまわしを使っていた。水谷さんは、さすがに大女優といわれるだけあって、むつかしい方言も、ほとんど直す所がない位、見事だった。とても近寄りがたく、教えるなんてとんでもないと、思っていたら、つと側にこられ、
「私にも教えて下さいよ……」とおっしゃったのには、すっかり恐縮してしまった。
  稽古も順調にすすみ、最後の打ち上げの席で、偶然岡田さんと隣り合わせになった。高校生の頃、隣町の白浜で映画のロケがあり、見に行ったこと等をお話すると、(その中に、若き日の岡田さんがいた)感慨ぶかげにうなずかれて、
「あの頃は、一番生活があれていたんですよ」と話され、ビールを注いで下さった。私は人との出会いは、不思議なものだと、つくづく思った。
  十一月から放映が始まり、毎週楽しくみた。内容は、日本で初めての麻酔薬の実験をめくり、“嫁と姑”のすさまじいばかりの葛藤をえがいたものだった。芝居の内容もさることながら、配役の前に出てくる、方言指導、中舘幸子という四文字を主人は、
「出た出た、お母さんの名前が出た」と指さしては、子供たちと一緒に喜んでいた。

 記念にいただいたアルバムを、開く度に、当時の様子があざやかによみがえってくる。よい機会を与えて下さった関係者の方たちに、感謝しながら、私の人生のひとこまとして、いつまでも心の中に、生き続けるだろう。