沖縄鎮魂の旅


姫野ヨシ子



 「もし生き残られて、いつか行ける時が来たら、玉砕の島へ渡り、供養してあげたい。」

昭和二十年、十九歳の女教師だった私は、次々に、玉砕の報に接する度、こう思った。この思いは戦後二十七年経っても消えない。あの頃は想像も出来なかった豊かな生活の現在にひきかえ、青春もなく、極限生活の果て、玉砕された方々への愛惜はつのるばかりである。幸い退職して、自由になったので、行く方法を調べ、沖縄ツアーを知った。沖縄は、本土の捨石となり、日本軍十一万人・住民十三万人が玉砕された島である。

 五十七年五月六日、羽田九時発のジェット機は、十一時半には那覇に着いた。こんなに速く、こんなに楽に来れる所になっていたのに驚く。空港よりバスで南下し、ひめゆりの塔へ向かう途中、道路より内陸は米軍基地で高い二重の有刺鉄線が延々と続いている。

 ひめゆりの塔は、バス路線から、百メートルと離れていない小さな森の中にあった。入口で花束と線香を買い、塔の前へ進む。横長の四角の塔には、小さい文字が、ぎっしり刻まれてある。近づいて、よく見ると、教師十五名、女学生百四十三名の芳名であった。前の大きな献花台には、花束が三十センチほど積まれ、香の煙が立ちこめている。右前の墓石に似た碑に、

 いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびの友は。

と刻まれてある。夫と共に花束を捧げ、香を焚き、土に坐って合掌した。祈っても祈っても足りないもどかしさ。どう祈れば、み霊に通じるのでしょうか。女子では、沖縄一と聞く第一高女と女子師範の生徒達。もし生きられたら、どんなに充実した生き方をなされていることでしょうか。

 昼食を近くのひめゆり会館ですませ、摩文仁の丘に向かう。バスガイドの説明では、この付近は、畳一帖の広さに弾丸千三百発の割合で当たり、世界の戦争史に類例のない激戦の地の由。そんな弾丸の中で生身の人間が、どうして生きられよう。軍隊と沖縄住民の悲惨極まる最期を偲び、胸が痛くなった。

 三キロほどで摩文仁の丘入口に着く。真新しく広いほ装道路は、ゆるやかな坂道である。麓から頂上まで、道の両側に、各県別の慰霊塔が、それぞれの思いをこめた形で林立している。ここ沖縄だけでなく遠い南方の海や島で戦死された方々も合祀されてあるとか。一基一基に合掌しながら上って行く。大分の塔は、なかなか見当たらない。探しながら上っていくうちに頂上に着いた。

 頂上に建つのは、黎明の塔で、牛島司令官、長参謀長、第三十二軍を祀る。昭和二十年六月二十三日午前四時三十分、二将は、ここで割腹され、沖縄戦は終了した。いかなる名将も忠烈な日本軍も、制海空権を奪られ、膨大な高性能の兵器を持つ大軍には、勝つ術はない。代表者が大きな花束を捧げ、みんなで合掌した。それにしても絶望の中での最後なのに、黎明の塔とは、誰がどんな思いをこめて名付けられたのでしょうか。

 近くの展望台から洋々たる太平洋が視界の限り見渡せる。今日はおだやかな海である。九州は北のあの方か。あの空から特攻機が飛来し、この海で体当たりされたのか。東のあの水平線の彼方から米艦が続々と現われて、この海で大海戦が展開されたのか。海に向かって祈りは深い。

 今は一隻の船も見当たらないが、玉砕当時は、千五百隻もの艦隊が終結した由。玉砕された方々は、この丘からどんな思いで眺められた事でしょう。飲み水も、食物も、弾丸も尽き、空・海・陸の大包囲の中で、戦大に焼かれた方々の屍で埋った木を見ると、胸がしめつけられた。茂みの中はほの暗く、ゆれる木洩れ陽は、終戦を知らぬ七生報国のみ霊に見えてならない。

 この丘にいまだにおわす霊あらば お伴いたさん ふるさとの空。

茂みの中に入り、土に坐って私は祈った。葉ずれの音は、忍び泣きとも聴こえてくる。どんなに祈っても祈り足りない。耳許で、「すみませんでした。」という夫のつぶやきが聞こえた。軍需工場の技術指導者で、前線へ出られなかった夫の声である。私達二人は、一行の最後に丘を下りた。

 帰宅後、沖縄の資料を調べ、大分の塔の場所を知った。摩文仁の丘より南西に四キロほどの海辺である。この塔には、佐伯の方々はどのくらい祀られているのでしょうか。すぐ近くまで行きながら、残念でならない。しかし一九歳のときは夢のような思いであったのに果たす事が出来た。

 あの旅から一年経っても、エメラルド色の海辺の丘に白く輝いて林立する塔を思い出す。これから歳月が流れると、沖縄戦も風化するかも知れない。あの塔は、後世まで、戦争の悲惨さを伝え、戦争の歯止めとなってほしいものである。




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